勝竜寺城

別名-   付近住所 京都府長岡京市勝竜寺 現在 勝竜寺城公園
2008/7/19 碑・案内板アリ 日本城郭大系


細川頼春
畠山義就
岩成友通
細川藤孝
明智光秀

永井直清
 勝竜寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応2年(1339)に築いたといわれる。
 城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷を同時に押さえうる交通の要所に築かれている。
 応仁・文明の乱(1467〜1477)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地方の拠点となった。戦国時代になると、織田信長からこの城を与えられた細川藤孝(幽斎)が元亀2年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正10年(1582)の山崎合戦では、明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。
 ところで、この城は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ)が16歳で藤孝の子忠興(16歳)のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られている。
 城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらしていた。北東の神足神社付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡や空掘跡が残されている。
 この城跡は勝竜寺城公園として整備され、平成4年春に市民の憩いの場としてよみがえった。これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓が発見されるなど数多くの成果が得られた。その結果、勝竜寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、我が国の城郭史上でも貴重なものであることが明らかにされた。

勝竜寺城の誕生
 勝竜寺城は、京都に光明天皇を立てて武家政治を主張する足利尊氏(北朝)と奈良吉野で公家政治を主張する後醍醐天皇(南朝)が、激しく対立していた暦応2年(1339)、八幡市男山に出没する南朝方に対して、尊氏一族の細川頼春・師氏兄弟によって築かれたといわれています。また一説には康正3年(1457)に山城守護畠山義就が乙訓郡代役所として築いたとするものや、文明2年(1470)10月に応仁・文明の乱での西岡支配のために西軍畠山義就が築いたとする説があります。

永井氏勝竜寺城
 徳川家康が天下統一をはたし強力な幕藩体制ができあがって、将軍の地位は徳川氏の世襲となりました。その3代目の家光の時寛永10年(1633)に、永井直清は勝竜寺城2万石を与えられました。この勝竜寺城は「城州神足之図」に伝えられています。細川氏の築いた勝竜寺城はこの頃相当荒れていたらしく、また洪水にも見舞われました。永井直清は旧城の北側の、洪水にもたえられる小高い立地に城を移しました。発掘調査では、神足駅の周辺で図にうまく合う遺構が見つかっています。調査の結果、神足駅の東側に本丸を築き、その囲りに武家屋敷を設け、これらを取り囲むように足軽町があった状況が次第にわかってきています。

                    

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